キベベワールド

「メガネの一心堂」の店長が、タメになること・ならないことをつづります

クラス替え

新年度が始まり、息子の学校もクラス替えがありました。

クラス替えというと、私は中3のときのことを思い出します。

1年のときは6組でした。
2年になると4組になり、メンバーもかなりシャッフルされた感がありましたが、担任の先生は1年のときと同じでした。

この4組、定期テストで高得点を取れる生徒が多く集まっていたこともあり、定期テストの平均点が他のクラスよりも毎回10点近く高かったのです。
バランスが悪すぎるので、3年になったら、成績上位陣は放出されるだろうというのが、一般的な予測でした。

で、3年のクラス替え。
このときは、2年1組の担任は、そのまま3年1組、という感じで原則持ちあがりで、メンバーのシャッフルも昨年ほど多くないように感じましたので、クラスの雰囲気みたいなものも、そのまま引き継がれていました。

4組に関しては、やはり成績上位者の多くは放出されました。
もちろん、中には残留する生徒もいましたが、私もどちらかというと平均点を上げるグループに入っていたためか、5組になりました。

ここが問題です。

私は4組の担任の先生に、結構重用されていると勝手に思っていたので、
(↓通知表所見欄)

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「2年間みてもらったし、3年になっても同じかな」と思っていました。

ですが、その先生は、高校教諭として転出されたのです。
ちなみに、2年5組の先生にも、かわいがってもらっていたのですが、この先生は他の中学に転出されました。

ということで、私は「放出されたのか」「求められたのか」「どうでもよかったのか」どれなのかが気になるわけです。


仮に、次年度の人事異動がクラス替え会議のときには決まっていないとして、まず「誰が何組の担任になるか」を決め、ついで生徒の割り当てを決めるのだとしたら。。。

前述のように、2年から3年へのクラス替えは、担任は基本持ち上がりでした。
なので、プロ野球でいえばFAの人的補償に対する、「来年も手元に置いておきたい」という「プロテクトリスト」と、「出してもいい」というリストがあり、「出してもいい」リストの中で、生徒のシャッフルをしたのではないかと。

そうすると、私は4組の先生にとっては重用されていたどころか、単なる「放出品」で、それを5組の先生が「是非、うちのクラスに」となったという仮説が成り立ちます。
プロテクトされなかったのは寂しいですけれども、それが一番自然な背景です。
良く考えれば、2年5組の先生に「必要としてもらった」ともいえます。
(無論、どこからも引き合いがなくて「じゃあ、うちでいいよ」となった可能性もあるわけですが。)


ところが、4組の先生は、先生の自宅に近い高校への転出です。
恐らく、あらかじめ希望を出していたのだろうと考えたくなります。
そうすると、「プロテクトリスト」というのは必要がありません。
「私は転出しますから、来年担任される先生がたで、ご自由に」という感じになります。

そう考えると、少なくとも4組の先生から「放出された」という感じはなくなります。

一方、もしクラス替え会議の時点で新人事がわかっているのなら、2年5組の先生は新クラスには関与しませんから、新3年4組の先生に「必要」と思われることもなく、「クラス平均点の調整」のために放り出されたと考えることが可能です。
新3年5組の先生は、他学年からの移行で、全く私とは面識がありませんでしたから、「うちのクラスに欲しい」と引っ張られたのでもないわけです。

真相はどうだったのか、もし機会があるのなら、聞いてみたいと思っています。



  1. 2017/04/05(水) 23:38:03|
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高校時代

私が中学生だった頃、神奈川の公立高校は、県内をいくつかのブロック(学区)に分けて、「ここの中学に通う生徒は、この学区内の高校に進学しなさい」というのが原則でした。
そのため、私が進学した高校には、同じ中学の卒業生が男女合わせて20名くらいいました。

私は、知らない人たちばかりの集団の中で、友達を作っていくのが苦手だったのですが、同じクラスに中学の同窓生が4人いたこともあり、かなり自然にクラスに馴染むことができました。
これは本当にありがたかったと思っています。

2年生の時は、極端に男子が少ないクラスになり、自分の立ち位置が曖昧で、決して居心地がよかったとは言えませんでした。
それでも、学年末にクラス対抗で行なわれる球技大会のバレーボール部門で優勝しようという目標のもとに、2学期以降は昼休みに他のクラスと練習試合を積んで強化に励むという、いわば「仲間と一緒に夢中になれる時間」が持てたことで、つまらない1年間にはなりませんでした。

3年生の時は、秋以降、放課後に教室に残って友達たちと受験勉強をしたのが、とにかく印象に残っています。
勉強している時間より、休憩と称して雑談している時間のほうが、もしかしたら長かったのではないかという気がしますが、そのおかげで入試までのデリケートな期間を悲壮感いっぱいで過ごさずに済みました。
1勝4敗という入試の結果を踏まえると、「雑談しすぎたか?」とは思うのですけど。

中学を卒業するときは、何の感情も湧いてきませんでした。
ですが、高校を卒業するときは「楽しかった」という思いがいっぱいだったのを覚えています。
私は高校では部活に入っていなかったので、交友関係は狭かったですが、楽しい友達に恵まれたのが大きかったです。

といいつつ、その友達たちに会うのが20年ぶりというのもなんだかなぁ、と昨日のクラス会に足を運んで感じたのも事実だったりします。

学校生活がどんなものになるのかというのは、友達次第のように思います。
(もちろん、お世話になる先生にもよるでしょうが)
息子には、卒業した時に「楽しかった」と感じてもらえるよう、友達とうまくコミュニケーションを取っていってもらいたいなと、切に願っています。






  1. 2016/11/20(日) 23:40:52|
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商人の子供

私は一心堂の創業者の子供として生まれました。

当時は、今のような大型店やチェーン店が乱立している時代ではなく、いわゆる「個人商店」がまだまだ多くありました。
私と同じ学年だけでも、クリーニング店・石材会社・布団店・ケーキ店・焼き鳥店・牛乳店・手巻き寿司店・そろばん塾・米穀店・不動産店などなどの子供がいました。

彼ら(私も含めて)は「○○屋の息子・娘」といった見方を地域の人たちからされるのが宿命であり、当然、「この子の親は○○だ」ということも地域の人はわかるわけです。


幼稚園時代の話。

母が風邪で寝込んでおり、「イチゴを買ってきてほしい」と言われたので、駅ビル内のスーパー「小田急オーエックス」までお使いに行ったときのこと。
この店に一人で買い物に来たのは初めてでしたが、「カゴに欲しいものを入れて、レジに並んで、お金を払って、ビニールに買ったものを入れて持ち帰る」という一連の流れは、母の買い物によくついていっていたので知っていました。

が、カゴ(↓こういうの)が、

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高く積まれていて、手が届かず取れませんでした。

イチゴは見つけたものの、カゴがないし、どうやってレジに持っていったらいいんだろうと悩んだ私は、持参していた手提げ袋に入れていけばいいんだと思い、手提げ袋にイチゴパックを入れようとしました。

すると、いきなり知らないおばさんが「あらあらダメよ」みたいなことを言いながら近づいてきて、イチゴパックを持ち、私の手を引いてレジに並ばせました。
「ちゃんとここでお金払って」みたいなことも言われた気がします。

私にしてみれば、「カゴがないから手提げに入れてレジに持っていこうとしただけなのに、何でこの人はお金を払えとか当たり前のことを言うんだろう」、そんな気になったのですが、とにかく会計を済ませて帰宅しました。
スーパーから家までは、2分くらいです。

帰宅すると、母に「ダメよ、お金払わなきゃ」と言われました。

つまり、帰宅するまでのわずかな時間内に、さきのおばさんが私の店に来店されたか電話をされたか、とにかく「おたくの子供がイチゴを万引きしようとしていたので、私がレジに連れて行ってお金を払わせた」といった主旨のことを父に伝え、それが母に伝わったということです。

確かに誤解されても仕方ない行為だったとは思いますが、幼稚園児にしてみれば「なんで怒られないといけないんだろう」と思ったものです。


小学2年生の時の話。

補助輪なしで自転車に乗れるようになった頃、友達の家の前の道路で自転車を漕いでいると、私の自転車の荷台に友達がまたがろうとしてきました。
2人乗りをしてはいけないことは知っていましたし、まだ上手に自転車のコントロールができなかった私は、「やめてよ、降りてよ」と拒否をしたのですが、友達はしつこくつきまとってきます。
よろよろとしながら道路の真ん中に出てきたところ、向こうから自動車がやってきました。

自動車もスピードを出していたわけではありませんし、私はよろよろと道路を横断をして、何事もなく済んだのですが、帰宅すると父に叱られ、「これが守れないのなら自転車に乗ってはいけません」ということで、何ヶ条かの約束事を書いた紙を渡されました。

「二人乗りをしたのではなくて、断ったのに、やめてくれなかったんだ」と言いたかったですが、口答えなどしようものなら大変なことになりますので、黙って叱られました。

これも、自動車を運転していた人が「お前んとこのセガレが二人乗りしてたぞ。危ねぇじゃねえか」みたいな主旨のことを父に伝えたのでしょう。


この他にも、公園で一緒に遊んでいた友達がスナック菓子を分けてくれたので食べていたら、帰宅後、母に「行儀の悪いことをして」と叱られたり、まぁとにかく律儀にご注進してくださる人があちこちにいたわけです。

で、子供心に「自分が何かやらかすと、親や店(当時は社員さんが何人かいましたので)に迷惑がかかる」ということを学びました。
それが抑止力になったかどうかはわかりませんが、盗んだバイクで走りだしたり、校舎の窓ガラスを壊してまわったりして警察の厄介になるようなことはなく成人しました。


外面をよくしないといけないというのは、正直、窮屈に感じることもありました。
ですが、逆に、親や店のことで、周りからバカにされて肩身の狭い思いをすることはありませんでした。
これは、親や社員さんたちがきちんとした仕事をしてきてくださったおかげです。

私の息子は、私と同じ運命を背負わされています。
息子がどのように感じるかはわかりませんが、私の不始末で息子が辛い思いをすることがないよう、責任を持って仕事をしていきたいと思います。




  1. 2016/09/18(日) 23:42:45|
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通知表

今日が終業式の学校、結構あるみたいですね。

終業式といえば通知表。

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私は毎回毎回、通知表を親に見せては、叱られていました。

私が小学1年の1学期の通知表

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問題となったのは、「くらしのようす」

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「ものをだいじにし、せいとんができる」がCだったこと。
これについて、両親から、ケチョンケチョンに叱られて号泣しました。

後日、「○○ちゃんは、全部Aだったらしいわよ」と、ダメ押しをされました。

毎回こんな調子で、私にとって、終業式の日は、無条件に叱られる日だったのです。


息子も今日、通知表を持って帰ってきました。
内容はともかく、「学校がとても楽しい」と言っていること、それが一番です。


  1. 2016/07/20(水) 23:58:19|
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ナイトハイク

私が大学生だった頃、毎年5月下旬に「ナイトハイク」というイベントがありました。

中大の後楽園キャンパスから多摩キャンパスまでを、夜通し歩いて移動するという、ただそれだけのことなのですが、結構人気のイベントでした。

後楽園キャンパスから白山通りを下り、神保町の交差点から靖国通り経由で国道20号に。
新宿で最初のチェックポイントがあり、スタンプを押してもらうか何かをしたと思います。

以降、20号をひたすら歩き、仙川のキューピー工場と、府中の駅前にもチェックポイントがありました。

その後も、京王線に沿うような感じで歩き続け、多摩キャンパスまでは45kmほど。
10~12時間くらいかけて歩いたと思います。


出発前には、学長の挨拶やら応援団のパフォーマンスやらがあったりします。

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参加人数に制限がないので、かなりの学生が集まり、スタートの合図があってから、キャンパスを出るまで、かなり時間がかかります。

最初のうちは、口数も多く、元気なのですが、仙川に着く頃から少しずつしんどくなってきまして、府中のあたりでは寡黙に。

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20号から新府中街道へ入るころには、空が明るくなってきます。
御用達だったボウリング場「さくらサンリバー」を過ぎて関戸橋を渡るころになると、先が見えてくるので、ちょっと元気になってきますが、

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百草園のあたりから足の痛みがひどくなり、ちょっと休憩しないと足が出なくなります。
最後の最後に、急な登り坂をクリアしてゴールです。

私は、サークルの仲間たちと、1年生・3年生の時に参加しました。
2年生の時は、サークルの全国大会と重なり参加できず、4年生の時は、中止になったか、参加が抽選になったかで、とにかく不参加でした。

3年生の時、仙川のチェックポイント近くのマンション住民が「学生たちの声がうるさい」ということで激怒していたので、その辺りが影響していたと思います。


あれから20年以上経っていますし、まったく運動をしていませんので、今、いきなり同じことができるかと言われたら、自信がありません。
先月買ったサポートタイツが、まだ使えていないので、これからは、時間を見つけて歩く機会を作ろうかなと考えているところです。



  1. 2016/05/11(水) 23:48:01|
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ハチマキ

卒業式のシーズンになりました。

卒業といえば卒業文集。

もし過去に戻ることができたとしても、中学校生活をもう一度やりたいと思っていないことは前に書きましたがそんな私が、中学校卒業に際してどんな文章を寄せたかというと・・・

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2年生の2学期の中間試験から、定期テストにはハチマキを締めて臨むようになりました。

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別に、先生に手心を加えてもらおうなどと考えたわけではなく、純粋に、ハチマキを締めていると気合が入るからしていたわけです。
先生も、それにたいして何も否定的なことは言わなかったですし、好意的に受け止めてくれる先生もいました。

ただ、3年生の2学期からは、やめました。
ハチマキに必要以上に依存してしまうと、(ハチマキをさせてはもらえないであろう)高校入試の時に困ると考えた、というのも理由のひとつです。
家で勉強するときは、やっていましたけれど。

もちろんハチマキをしたからといって、100点が取れるわけではないし、ハチマキをしていなくても私よりいい点を取る人はいたわけです。
「意味ないじゃん」「カッコつけやがって」そんな風に思う人もいたでしょうが、誰かに強制されたものでもなければ、他人のためにやっていたわけでもないので、正直「ほっといてくれ」という感じです。


そんなわけで、「一走入魂」のハチマキをして試合に臨む、中大の町澤選手にはシンパシーを感じます。

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『中央大学の近況 2015 Vol.13より』

彼はメディアのインタビューで「ひとりだけハチマキをして恥ずかしくないのですか」みたいなことを聞かれていましたが、それこそ本当に大きなお世話というか、そのインタビュアー自身が内心では彼のことをバカにしてるんだろうな、と思うと無性に腹が立ったりしまして。

「恥ずかしい」とか思うようなことを、わざわざ大事な試合でするわけないじゃないですか。
彼がハチマキに愛着を持っていることはわかりきっているのだから、せめて「ハチマキはスペアを持っているのですか」「手作りですか」みたいなことを聞けばいいのに、と思ったものです。


私自身、今はもう、ハチマキをする機会はなくなりましたが、そういうルーティンを大事にするのは、たとえ傍から見れば「気休め」にすぎないとしても、本人にとっては意味のあることだと思います。





  1. 2016/03/16(水) 23:32:58|
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大阪の思い出

私はお風呂で湯船に浸かりながら本を読むのが好きなのですが、ぬるめのお湯に長く浸かるのは好きでないので、それほど長湯ができません。
なので、軽く読めるというか眺めるくらいで済む、旅行雑誌あたりが手頃です。
行った気にもなれますし。

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私が初めて大阪の地を踏んだのは19歳の時。
大学2年の5月でした。
関西大学の千里山校舎で行なわれる、所属サークルの全日本大会(全日本大学速記競技大会)への参加のためです。

大会前日の土曜日に大阪入りしたわけですが、見るものすべてが新鮮でした。
新大阪の駅ビルの食堂で出された水の不味いこと。

このときの中大選手団はほとんど女性陣が占めており、下っ端の私はご意向に従うままに、この日は神戸異人館めぐりでした。

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関大近郊のホテルがどこも満室だったこともあり、お宿は河内小阪にある大商大の学生会館。
お風呂は近くの銭湯を利用し、早稲田の選手団と、広間で雑魚寝でした(男女は別ですが)。
そういえば、河内小阪駅前の食堂で出された水も不味かったです。
いまはわかりませんが、当時の大阪では、仕方なかったようですが。

さて、なんでホテルが満室だったかというと、この年は鶴見緑地で「花の万国博覧会」が開かれていたからでありまして、大会当日の夜、運よく江坂のサニーストンホテルに宿泊できた中大一行は、女性陣の意向に抗う術もなく、大会翌日に花博へと足を運びました。

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帰りは大阪から寝台急行「銀河」です。

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3泊4日(実質2泊3日)の大阪というか関西遠征でしたが、大学生活の思い出をランク付けした時に、ぶっち切りの第2位に入る、とても楽しく印象に残る時間でした。
「あのとき、ああしてこうして」と、今でも鮮明に覚えています。

まぁ、何事も初めての時の印象というのは強烈なもので、翌年も翌々年も、この時期に大阪遠征があったのですが、その時の記憶は曖昧だったりします。

3年の時は、大会前日に大阪城へ行き、

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梅田の地下街で、トリッキーな動きをする噴水を見たのと、

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大会翌日に京都へ行ったのは覚えていますが、全般に印象が薄いです。


4年の時は、大会前日に心斎橋界隈を巡りました。
「モータープール」というのが「流れるプール」ではなく駐車場のことだというのを知ったのは、この時です。

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2丁目劇場で、コントを見ましたが、だれが出ていたのかは覚えていません。

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大会翌日は、またまた神戸異人館めぐりののち、須磨浦公園へ寄り、元町の中華街で食事をした気がします。
梅田から須磨浦公園へは、山陽電鉄直通の阪神電車で移動したのですが、甲子園駅で車内から甲子園球場を撮っていたら、通りすがりのおっさんに「いなかもん」と吐き捨てられてムッとしたのを覚えています。

途中、この1年後に私が住むことになる駅を通過しました。
そのときは、よもや、神戸市民になるなんてことは思ってもいなかったですが。


大学卒業後の4年間、大阪まで1時間かからずに行ける場所に住んでいながら、結局そのときはほとんど大阪に行くことはありませんでした。
プライベートでは、梅田に献血に行ったのと、エキスポランドに行ったぐらいの気がします。
近いと、かえって足を運ばないものなのかもしれませんが、もっとあちこち探訪すればよかったなと、「まっぷる」を見るたびに思います。







  1. 2015/06/06(土) 23:20:09|
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卒業文集

世間は卒業式のシーズンのようです。

卒業といえば、卒業文集。

小学生のときは、卒業アルバムと一緒でした。

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表紙は自分で好きな絵を描いてよいということで原稿用紙を渡されたのですが、私はその辺の事情をよく把握しておらず、卒業生全員が提出した原画の中から優秀なものが選ばれるのだと思っていたので、無難に「進学」という言葉を前面に出してお茶を濁しました。
途中で、自分で描いたものが自分のアルバムの表紙になるということを知ったのですが、時すでに遅しでした。
泥縄的に貨物列車を描きましたが、最初から知っていたら、小田急の車両を描いていました。


中学の時は、ひとり400字くらいという字数制限があり、手書ではなく活字なので、あまり味があるものとは言えませんでした。
私の文章については、また後日。

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高校のときは、卒業生全員の文集というのはありませんでした。
高校2年の時に行った修学旅行の感想をまとめたものが、それの代わりです。

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ただ、私たちのクラスは、担任の先生の計らいで、クラスだけの文集を作りました。

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1人何ページでも、何を書いてもいいからということと、手書き原稿ということもあり、個性あふれる内容になりました。


大学の時は、サークルの仲間でつくりました。

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「飛燕」という題で、私たちの何代か前までは毎年恒例だったようです。
しばらく休刊が続いていたのですが、私の一存で復活させました。


小学校・中学校時代には、たいして思い入れがありませんが、今回のネタを機に、高校時代の2冊を実家から持ち出しました。(大学時代のは、既に持ってきておりましたので)
ひさしぶりに、ゆっくり読み返してみようかと思います。

「俺にも愛をくれよ!!」という名言を残して巣立っていた彼が、

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見事、愛をつかめたかどうかが、ちょっと気になります。




  1. 2015/03/22(日) 23:10:17|
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初めての海外

今から22年前、1993年の2月中旬、私はアメリカにいました。

4月から入社予定だったダイエーの「米国研修」に参加していたのです。
内定者が対象の研修でしたが義務ではありません。
それでも、数百人いた内定者のうちの、かなりの者が参加していたと思います。
費用の半分だか3分の1だか2だかをダイエーが負担してくれるという背景もありましたのでね。
バブルは弾けたとはいえ、まだまだ拡大路線を続ける体力が会社にあった時代の話です。

ロサンゼルス・サンフランシスコ・ハワイと周る8日間くらいの日程だったと思いますが、研修とは言いつつ観光できる時間もあり、せっかくの機会なので私も参加したわけです。
初めての海外へ。

研修の内容はというと、基本的には店舗見学。
その日の内容をその日のうちに、レポートとして提出といったものでした。
中内CEO率いるダイエーは、アメリカの小売業を参考にした経営をしている部分が大いにありましたので、それを肌で感じてもらえればということだったのかもしれません。


ウォルマート・Kマート・ターゲットのスーパーマーケット御三家をはじめ、

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SEARSに代表される百貨店や、アラモアナに代表されるショッピングモール、

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それから、何らかの特徴を持ったスーパーなども回りました。

会員制ではないものの、内装や陳列に経費を掛けず(コストコみたいな感じ)、その分価格を安く提供するスタイルのお店。

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カートに端末が付いていて、売り場の案内やセール商品などがチェックできるようにしているお店。
(パビリオンという名前のお店だったような)

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私が一番気に入ったのは、雑然とした感じのしない「ターゲット」でした。


観光バスで乗りつけたジャパニーズたちが、ぞろぞろと店内をさまようのは異様な光景だったかもしれませんが、私は1ドル2ドルのものでもいいので、入ったお店では必ず何か買うようにしました。

スポーツ店で買ったメジャーリーグ(ナ・リーグ)の公式球。

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自由行動のときに2時間ほどメキシコに入りました。
貧富の差といっていいのかわかりませんが、雰囲気が全く違っていたのと、「必ず値切るように」と言われていた通りに値切って3枚何ドルかで買ったTシャツが、数回洗濯したら破けてしまったのを覚えています。

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当時のダイエーは、やたらと広い店舗面積を誇るハイパーマートとか、会員制のKou’sとか、アメリカ仕込みのいろいろな業態にチャレンジしていましたが、微妙に先取りし過ぎていたような感が、いま思うとあります。

この研修には、大卒社員がチューターとして付き添っておりまして、会社に入ってからのことをいろいろ聞かせてもらいました。
自分も次はチューターとして参加したいと思っていましたが、それが実現する前に震災が起こり、会社にそんな余裕はなくなったようです。


6年後にアメリカに住むことになるなんて夢にも思ってもいませんでしたし、今日のようなネット通販の台頭なんていうのも予想だにしていなかった、22歳のころの話でした。


  1. 2015/02/22(日) 23:23:21|
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国語の授業

私は、子供のころ「読書感想文」を書くのが苦手でした。

本を読むのは好きでしたが、「面白い」という感情を持つだけで、何かしら感銘を受けたとか、影響を受けたいうことはほとんどなかった気がします。
なので、感想と言われても、気の利いたコメントができませんでした。

これは中学生の時に使った、国語教科書です。

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中学・高校を通して国語の教科書の中で印象に残っている作品は一つだけです。

中一のとき、一番最初に授業で取り上げた、高田敏子氏による「心を伝える」というもの。

言葉には、意思を伝えたり用事を果たしたりして実用的に使われるものと、心を伝える言葉として使われるものとに大別されるとし、例を交えて説明をしています。

その一節を、引用します。(光村図書 国語一 昭和58年発行 15〜16頁)

(引用開始)

駅の売店に勤めているA子さんが、こんなことを言いました。

「わたし、この仕事につくとき、お客様には、できるだけ親切にしてあげようと決めたのですよ。
でも、いざ店に立ってみると、『ありがとうございます。』などとていねいに言っているひまはありません。
『はい。』と言って次々に早く品物をわたし、おつりを出してあげるのが、いちばんの親切だということがわかりました。
だって、みんな大急ぎで電車に飛び乗っていくのですもの。」

A子さんの言うとおり、駅の買い物はみんな大急ぎ。
それで言葉も実用だけで簡潔にすますことが、使い方としてふさわしいのです。
でも、ふだんいつも、こうした実用だけの言葉ですますとしたら、さびしい思いになることでしょう。

「どうぞお茶を。」と言うときの「どうぞ」は実用ではなく、相手にお茶をすすめる心を表す言葉。
もしこの言葉がなく、「お茶。」「ごはん。」と言うだけで差し出したとしたら、お客様は、おいしくいただく気にはならないでしょう。

(引用終わり)


この作品では、「心を伝える言葉」の大切さ、みたいなことを述べられていましたので、生徒の読後感想も「人の嫌がるようなことは言わないようにしたい」といった「言葉」に関するものでした。
が、私の感想はと言うと「A子さんの会話を読んで、何が『親切』なのかは、時と場合によって異なるのだ、ということがわかった」でした。

何か、ピントがずれていますけれども、言葉が大切とかいうのは当たり前のことで、私はA子さんの言葉にこそ「なるほど、奥が深い」という印象を持ったのです。
そして、このA子さんの言葉以上に「なるほど」と思ったのは、以降の国語の授業ではありませんでした。

それは、掲載されていた作品の内容がどうこうというよりも、各作品の著者の顔写真に落書きをしていたことからもうかがえるように、

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(光村図書 国語一 昭和58年発行 139頁)

単に授業をまじめに聞いていなかったせいなのかもしれませんが。


  1. 2015/02/08(日) 23:34:35|
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教師との相性

私の通っていた小学校は、1・2年生、3・4年生、5・6年生は同じクラスメート&(異動がなければ)同じ担任でした。

私の場合は、3年の時の担任が新年度に異動になったので、4年生になったときと5年生になった時は、それぞれ新しい担任の先生の下での学校生活になりました。

通知表に記載された、4年生の1学期を振り返っての担任のコメント

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同じく、5年生の1学期を振り返っての担任のコメント

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それぞれの担任にとって、初めて私と接した最初の学期でのコメントです。


4年生から5年生になる1年間というのは、心も成長しますし、クラス替えに伴う環境の変化もあって、発言や生活態度などにも違いが出てきてもおかしくないとは思いますが、私自身は特別同じようなスタンスで生活していたつもりです。

それでも4年生の時の先生は「ユニークな発想で」という表現を、5年生の時の先生は「一見するとシラケている様な」という表現をされています。

この件で、私は子供心に「(5年生のときの担任とは)波長が合わない気がする」という気持ちが芽生えました。
本当にシラケていることを言っていたとしても、自分のことが伝わっていないもどかしさみたいなものを感じたのだと思います。
なので、以後、この先生に対して、距離を置いた話しかた・接しかたをしていたかもしれません。


6年生の1学期、私は夏休み前に短期間入院することになりました。
入院前、この先生に、本当に何気なく「入院中は給食を食べられないけれど、それでも(7月分の)給食費の額は一緒なんですか?」と聞いてみました。
もちろん、額が変わらないのは承知していますから、食べない分を返金してほしいとゴネるつもりは毛頭なく、冗談みたいな感じで言っただけなのですが、先生は烈火のごとく怒りだしました。
(いまだに「叱られた」のだとは思えません。)

私は「どうして、こんなに怒られないといけないのだろう」と呆気にとられていたので、何と言われたかの記憶がほとんどないのですが、主旨は「なんでそんなセコイ考えかたをするんだ」ということだったと思います。
「この先生とは合わない」というのを確信した出来事でした。


ちなみに6年生の2学期のコメントは、これです。

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当時(今も)の私は、おもしろおかしく作文を書くのが好きだったのですが、その芸風はこの先生には受け入れてもらえないようなので、先生のお気に召すように論調を変えるようにしたわけです。
結果として、小学生らしい作文の書き方をさりげなく教えてくださっていたのかもしれませんが。

そんなこんなで、結局最後まで、距離が縮まった感じはしませんでした。


教師が他人の、しかも何十人もいる子供たちを、限られた時間の中で、1人1人理解しようというのは、とても大変なことでしょう。
教師によって「ある一人の児童・生徒」に対する見方・評価が大きく異なることはあるだろうし、指導法だって違って当然だと思います。
正直、接しにくい子供・接しやすい子供、というのもあると思います。

ですから、この先生の資質を否定するような気持ちは全くありません。
ちゃんと見るべきところは、見てくれていたのだとも思っています。

ただ、残念ながら私とは歯車が噛み合わなかったみたいで、結果として学校生活が多少窮屈に感じてしまったのは事実です。


息子も私に似て個性が強いですから、そこのところをうまく折り合いをつけつつ導いてくださる(それは決して、息子を甘やかすという意味ではありません)先生に出会えたらいいなと、1年以上先のことが、ふと気になった次第です。


  1. 2015/02/02(月) 23:32:27|
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夢中になれること

私の通っていた中学校では、年に一度「意見発表会」というのがありました。
いわゆる「青年の主張」的なもので、いくつかの決められたテーマの中から各自が一つ選んで自分の意見を述べるというものです。

「朝の会」や「帰りの会」などの時間を利用して一日何人かずつが意見を述べ、聞いている生徒が「声の大きさ」「説得力」などの何項目かを5段階評価で採点する「クラス予選」があり、一位になったものが「学年予選」に進出、そこでの上位2名だったか3名だったかが、全校を生徒を前に発表する、という流れでした。

私は毎年「部活動について」というテーマで、縦の関係(先輩・後輩)についての意見というか文句を述べていました。
1年生のときはクラス2位、2年生の時は1位でしたが学年予選は出席できない事情があり不出場、3年の時は学年予選敗退でした。

↓証拠(通知表の担任意見欄より)

1412134.jpg

まぁ、あんな意見を全校生徒の前で言うのもどうかと思いましたし、だから予選落ちしたのだと思いますが、そんな実績を買われたのか、卒業を控えたころに担任から「最後の学年だよりに載せるから、中学生活の思い出を書いてくれ」と言われました。

月に一回だったか忘れましたが、学年の様子を保護者に知らせる広報誌みたいなものがありまして、それに載せるというわけです。

それはいいのですが、ワタクシ、中学校生活をもう一度やりたいかと問われたら、間髪入れずに「否」と答えるタイプでありまして。
厳密には、3年のときの体育大会だけは、もう一度やりなおしたいと思いますが、それ以外はノーサンキューです。
なぜかは、いちいち記しませんが。

なので、気の利いた思い出が書けるはずもなかったのです。
かといって、書けませんというわけにもいきませんで、したためたのがこちら。
(私の自筆ではなく、先生の代筆です)

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私の提出した原稿は
「嫌な事や残念だった事が沢山ありました。」
だったのですが、代筆者の判断で許可なく改竄されました。

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「バットベース」というのは、ゴムボールとカラーバットを使ってやる野球です。
クラスでツッパってた何人かを除く男子みんなでやっていました。

我ながら、自己を正当化するような文章ですが、(仕事以外で)夢中になれるものを持つことは大事だと今でも思っています。

今の私にとって、それは「箱根駅伝」でしょうか。
(と、正当化してみる)


  1. 2014/12/13(土) 23:45:42|
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野球盤

今日のブログは、本日付のスポーツ新聞各紙一面の画像をもとにお届けする予定でございましたが、
諸般の事情により、予定を変更してお送りします。

想定外の予定変更でしたので、ネタの用意も不十分でございますため、どうしたものか考えた挙句、
野球盤の話でもしたいと思います。


小学校低学年のころに買ってもらった、エポック社の「ジャイアンツ野球盤 BMタイプ」です。

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消える魔球つきですが、左打ちはできません。
インコース・アウトコースの投げ分けもできます。
あまりに遅いボールを投げると、途中で止まってしまうのが欠点です。

私は一人っ子ですので、左手で投球レバーを、右手でバットを動かして遊んでいました。
自分で動かす分には、タイミングがわかっているので簡単ですが、友達と遊ぶときはタイミングがわかりにくく、
意外に打ちにくかった記憶があります。

高学年になって、プロ野球カードゲームで遊ぶようになるまで、随分とお世話になりました。


1311041.jpg

ガンバレ、ジャイアンツ。
クーッ・・・(泣)

  1. 2013/11/04(月) 23:01:43|
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中学英語

中学生のころ、ゼブラのチェックペンというのが流行っていました。

教科書の暗記したい語句に濃い赤のマーカーを塗って、

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緑色のフィルター(チェックシート)をかぶせると、塗った語句が見えなくなるというもの。

1308203.jpg

上図のように、今の時代でも、マーカーと下敷きがあれば同じことはできるわけですが、チェックペンは、消しペンを使うと消せるというのがセールスポイントでした。
まぁ、完全には消えないというか「塗ってたな」というのがわかってしまうレベルでしか消せないのですけど。


中学生の時に使っていた教科書。
東京書籍の「NEW HORIZON」。

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ページを開くと、当然のように塗ってあります。

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ただ、基本的に勉強の仕方がわかっていなかったようで、どうでもいい単語を塗りつぶしていて、今見てみると、あまり意味がありません。

また、このチェックペンを使う上での最大の欠点は、塗りつぶす長さによって、隠れている語句の推測ができてしまうことでしょう。

たとえば、「a」か「the」か、どっちがつくのがいいのか覚えようとして、それぞれ塗りつぶしたとしても、塗りつぶす量が短いほうが「a」に決まっているわけです。
つまり、どちらも同じ長さで塗りつぶさないと、見た目でわかってしまうと。

で、最終的に私はどうしたかというと、

1308201.jpg
1308202.jpg

全部塗りつぶしました。

で、それなら教科書閉じてても同じじゃん、ということに気がついたので、英語の定期試験の勉強は、教科書を暗唱できるようにするのが常になりました。

定期試験は教科書の範囲からしか出題されませんでしたから、基本的にはそれで十分対応はできたのですが、発音やアクセントの問題で間違えたり、前置詞の穴埋めを記号で答えず全部前置詞を書いてしまったりして、一度も百点を取ったことはありませんでした。


こんな勉強法じゃ、英語ができるようには、ならないだろうなぁ、という悪い見本でした。


  1. 2013/08/20(火) 23:30:45|
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日本特急旅行ゲーム

私は一人っ子ですので、子供のころは一人で遊んでいることが多かったように思います。
カードゲーム(トランプとかプロ野球カードゲームとか)であったり、ボードゲームだったりというのは、基本的に一人二役でやっていました。

ボードゲームの中で、一番好きだったのが、こちら。

1304232.jpg

日本特急旅行ゲーム。


要するに双六なんですが、東京駅をスタートとして、各自が選んだコースに指定された駅(8地方8駅)を周って東京駅に帰ってくるというのが大筋。

移動の際に、いかにうまく特急列車を使うかがポイントになります。
特急を使わないと、普通列車になりますので、歩みが遅くなると同時に、ルーレットで決まった数字が出ないと進めなかった気がします。

銀行券や株券などはありませんが、かわりに切符が各プレーヤーに各車種一枚ずつ渡されます。
つまり、特急は各々一回ずつしか利用できません(臨時特急は数回乗車可)。

関東から東北、四国から九州などとエリアを超えるたびに「ハプニングカード」を引かねばならず、「次で上がれるかな」というときに稚内へ飛ばされたり、他のプレーヤーを道連れに好きなところへ移動できたり、といった、どんでん返しが起こり得ます。

ボードゲームというと、やたらとルールが複雑だったりすることもありますが、いたってシンプルなので、初めてやる人でもすんなり入れます。


乗れる特急は、下記の通り。
ルーレットの出目によって、時刻が1時間ずつ進んでいき、その時刻によって乗れる特急が変化します。

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昭和54年のクリスマスに買ってもらったものだったと思います。
まだ、東北・上越新幹線も走っておらず、日本中をいろいろな特急が走っていた時代です。

今だと、新幹線ばかりで、すごく味気ないゲームになってしまいます。
寝台特急もほとんどないですし。


必要な部品はきちんと残っているので、今でも普通に遊べます。


  1. 2013/04/23(火) 23:09:55|
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なぜ誤答になったのか

30年近く前のことですが、いまだに納得いかないことがありますので、今日はその話を。

小学校6年のときだったと思うのですが、音楽の単元で民謡をやりました。
運動会での学年の出し物で踊った、富山の「こきりこ節」か何かを取り上げた気がします。
後日、民謡に関連するテストがあって、その中の問題に「知っている民謡をあげなさい」というのがありました。

授業でやった民謡の曲名を書けば済むような、くだらない設問ですが、授業でやったものを書くのは憚られるというのであれば、「ソーラン節」とか「炭坑節」なんていうのを書いておけば、多分マルがもらえたのだと思います。

ですが、私はそんなベタな回答をするような子供ではありませんでした。
「秋田おばこ」と書いて提出したのです。

ちょっとマニアックな曲かもしれないのですが、私が幼稚園に入る前くらいでしょうか、父が民謡に凝っていた時期があり、それで知っていたわけです。

が、テストが返って来たとき、私は怒りに震えました。
「秋田おばこ」がバツになっていたのです。

ご参考までに、

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http://www.asahi-net.or.jp/~hb9t-ktd/music/Japan/Studio/Midi/Traditional/Akita_Obako.html より

ちゃんと、秋田の民謡として挙げられているものです。


もし、この回答をバツにするのであれば、「秋田おばこ」という民謡が存在していないことを証明する必要があるわけです。
これは、他の曲であっても同様です。
自分が知らないのであれば、確認しなければなりません。
今のようにネットで簡単に検索できる時代ではありませんでしたし、限られた集落にのみ伝わるような曲であれば、調べるのは相当難儀するはずです。

先生も一応調べたけれど、見つからなかったのでバツにしたのかもしれませんが、それは「見つけられなかった」だけであって、「存在しない」ということを証明したことにはなりません。
ですから、このように誤答であるとする根拠を示すのに骨が折れるような問いを設けたこと自体が誤りであったといえるでしょう。


私は、

・なぜ、これがバツなのですか
・この民謡は存在しないということを、きちんと調べたのですか
・あなたが知らない民謡を書いたら、それはバツなのですか

といった主旨のことを先生に問い正したかったのですが、率直に言って、あまり私と波長の合わない先生で、こんなことを聞いたら、生意気だと引っぱたかれて終わりのような気がして、聞くことはやめたのでした。

「先生、ここに秋田おばこって載ってるよ」なんて感じで歌詞カードでも持っていって、笑顔で話しかけるのが子供らしい可愛げのある対応ではないかと思いますが、私はそういう寝技ができる子供でもありませんでした。

先生、あの回答はマルですよ。



  1. 2013/02/02(土) 23:00:33|
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サファイヤの指輪

一心堂は、昭和43年に私の父が創業しました。
当初は時計店、その後、宝飾や眼鏡なども扱うようになっていきました。

そんな背景がありますので、私は小さなころから宝石が身近にありました。
3~4歳ごろの私のお気に入りの石は、サファイヤ。

これは、そのころ、父が私にくれたものです。

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無論、本物を渡すほど父も酔狂ではありません。
ブルーの石のように見えるのは、おもちゃです。
おもちゃの指輪セットみたいなものにあったらしいのですが、それを不要の台(K14WG)につけてくれたわけです。

当時の私は、お出かけするときには、必ずこの指輪をつけていました。

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先日、息子の指につけてみましたところ、

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人指し指でもクルクルまわるくらい、サイズが大きかったです。
小学校に上がるくらいになっても指にはめられたサイズになっているので、今の息子にはまだ大きすぎました。

もっとも、息子は指輪より時計の歯車のほうがお気に入りなので、何の興味も示しませんでしたがね。




  1. 2012/11/28(水) 23:19:37|
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子供らしくなかった夢

幼稚園のときにかいた、「将来、何になりたいか」。

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※タイトルの「おいしゃさんになりたい」の字は先生が書いてくださいました。


どうせなら、もう少し子供らしい夢を書けばいいのに、融通が利かないのはさすがです。

できそこないのアミダクジみたいな絵は、病院の建物。
何のセンスも感じられません。
何を考えてたんだか、この10階建ての総合病院のすべての科を自分でやるつもりでいました。

色覚異常というハンデは置いておいたとしても、絶対的に知能が足りませんでしたので、儚い夢となりました。

  1. 2012/03/13(火) 22:23:38|
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半ズボン

私が小学生だったのは、今から30年くらい前ですが、冬は今より寒かったように思います。
地面には霜が降り、水たまりには氷が張るような朝が、普通にあったと記憶しています。

そんな寒さの折でも、私は毎日半ズボンでした。

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別に私がクレイジーだったわけでなく、周りの子供たちもそんな感じでした。
カツオとか、のび太もそうでしょ。
私の場合、上着は冬仕様でしたが、ランニングシャツ1枚の子も結構いました。

私は、風邪ひいていても、下痢気味でも、半ズボンでした。
長ズボンなんて、格好悪いと思っていました。

小学6年生くらいになってから、長ズボンをはくことも多くなった気がしますが。


一方、私が高校生だったのは25年くらい前、昭和の末期でした。

当時、女子高生のスカート丈は、これが基調だったと思います。
長いんです。(卒業アルバムより)

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2年生とか3年生になると、丈を詰めてミニスカート風にする子が、クラスに何人か現れるようになってきて、そのたびに「アイツ、どうしちゃったんだ?」てな具合に男性陣の話のネタになり、挙句、そのころにフルモデルチェンジした乗用車の名前が、その子の影のニックネームになっちゃったり。

修学旅行で九州に行ったときには、彼女らのスカート丈の短さに、九州の人たちが皆驚いたらしい。

そんな時代でした。




  1. 2012/02/17(金) 21:12:28|
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作文

このブログの記事を幾つかご覧になったかたは既にお気づきかと思いますが、私は簡単明瞭に文章を綴ることができません。

ついつい「あれも書かなきゃ」「これも入れとかなきゃ」となってしまうために、「たとえば」「つまり」「ちなみに」などが頻発します。
これは子供のころからの癖でどうしようもありません。


小学校のころ、何度となく作文を書きました。

たとえば(ほらね)、「昨日の出来事について書くように」という指示が出たとします。
こういう場合、
「学校からの帰り道、一匹のアリが自分の体よりも大きな餌を一匹で運んでいるのを見つけた。巣で待っている仲間や家族のために一生懸命働いているアリの姿に、僕は僕の両親の姿を重ね、両親に対する感謝の気持ちを禁じえなかった。自分もかくありたい」
ってな感じのものを原稿用紙一枚にまとめるとよい評価が得られるのかもしれません。

しかし私は、昨日何があったかを時系列に原稿用紙三枚にわたって綴るような書きかたをしてしまいます。

そんな作文を提出された担任にしてみれば「てめぇの与太話なんか読んでる暇はねえんだよ」ってな気持ちにもなるでしょうが、さすがにそんなコメントができるはずもなく、私の作文に寄せられるコメントの多くは、

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こんな感じです。


私は、文中に(自分が)クスッと笑ってしまうような小ネタや表現を含ませるのが好きでした。
ただ、それは指導者にしてみれば、ただのおふざけにしか映らず、好ましいことではなかったかもしれません。

「クラスで管理しているドッジボール用のボールを見て、感じたことを簡単に表現しなさい。後で発表してもらいます」という課題に対して、「コロコロと太ったボール」で始まる作品を発表したとき、クラスの連中はウケていましたが、先生がどう感じたかはわかりません。


皆さんもブログその他で「すごいぞ、自分」みたいな書きかたをすることがあるかもしれませんが、そんなニュアンスで、

「りこうな小供 ぼくが」と書いたら

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「こういう書き方は しないこと」と注意される始末です。


自分について書く課題のときは、

「頭を使うぼく」という大胆なタイトルと、「ぼくはたまにいいことをします」という、早く続きを読んでみたくなるような斬新な書き出しでスタートし、

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単なる自慢話で終わらせないために、
「しかしこんなことばかりではない。この前 女子の視力測定をやっている前にビョンと飛び出し 藤巻先生に「とんま。」と言われた。ぼくは きずついた。これからは何事にも気を付けよう」
と、失敗談と併せて今後の抱負を語ることで締めたにもかかわらず、

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先生からは何もコメントがなく、

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冒頭に申し訳程度につけられた二重丸でお茶を濁されたこともありました。


子供らしい、素直な気持ちを綴るのが、作文の奥義だったのかもしれません。
気付くのが遅すぎました。


というわけで、この記事に対してコメントをもらえるとしたら、やっぱり「くわしくかけています」になるのでしょうね。




  1. 2011/10/23(日) 23:12:27|
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